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坂口安吾, Sakaguchi Ango, Maplopo

安吾メモ (2)

坂口安吾「大阪の反逆—織田作之助の死—」より、安吾メモ (2) として引用文を載せていく。文学の神様・志賀直哉をけちょんけちょんに糾弾している部分。私は志賀直哉というと「小僧の神様」ぐらいしか読んだことがないので、これでは何とも評価がだせないが、まあ坂口安吾の肝の据わっていること。この時代に神聖化されていた大御所を、怖れもせずここまで言えるのは、さすが。*ボールド体、語句の強調は私。

安吾メモ(1)

志賀直哉の態度がマジメであるという。悩んでいるという。かりそめにも思想を遊んでいないという。然し、そういう態度は思想自体の深浅俗否とかかわりはない。態度がマジメだって、いくら当人が悩んでみたって、下らない思想は下らない。ところが志賀文学では、態度がマジメであることが、思想の正しさの裏打ちで、悩むことが生き方の正しさの裏打ちで、だからこの思想、この小説はホンモノだという。文学の思想性を骨董品の鑑定のようなホンモノ、ニセモノに限定してしまつた。

 

作者が悩んでいるから、思想が又文学が真実だ。態度がマジメだから、又、率直に真実をのべているから、思想が又文学が真実だという。これは不当な又乱暴な、限定ではないか。素朴きわまる限定だ。

 

俺が、こう思った。こう生活した。偽りのない実感にみちた生活だ、という。そういう真実性は思想の深さとは何の関係もない。いくら深刻に悩んだところで、下らぬ悩みは下らないもので、それが文学の思想の深さを意味する筈はなく、むしろ逆に、文学の思想性というものをそういう限定によって断ちきって疑ることを知らないところに、思想性の本質的な欠如、この作者の生き方の又文学の根本的な偽瞞がある。浅さがある。

 

志賀直哉は本質的に戯作者を自覚することの出来ない作者で、戯作者の自覚と並立しうる強力な思想性をもたないのだ。こういう俗悪、無思想な、芸のない退屈千万な読み物が純文学の本当の物だと思われ、文学の神様などと云われ、なるほどこれだったら一応文章の修練だけで、マネができる、ほんとの生活をありのまま書けば文学だという、たかが小手先の複写だから、実に日本文学はただ大人の作文となり、なさけない退化、堕落をしてしまった。

 

ただ生活を書くという、この素朴、無思想の真実、文章上の骨董的なホンモノ性、これは作文の世界であって、文学とは根本的に違う。つまり日本文学には文学ならざる読物の流行と同時に、更にそれよりも甚しく、読物ですらもない作文が文学の如くに流行横行していたのである。戯作性の欠如が同時に思想性の欠如であつた。のみならず、その欠点をさとらずに、逆に戯作性を否定し、作者の深刻めかした苦悶の露出が誠実なるもの、モラルだという。かくして、みじめ千万な深刻づらをひけらかしたり、さりげなくとりすました私小説のハンランとなって、作家精神は無慙に去勢されてしまったのだ。

坂口安吾(2019)「大阪の反逆—織田作之助の死—」『不良少年とキリスト』新潮文庫 pp.204-206

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