坂口安吾, Sakaguchi Ango, Maplopo

安吾メモ (1)

坂口安吾「大阪の反逆—織田作之助の死—」より、鉛筆片手に気づいたら傍線だらけになっていたので、そこからパーツに分けて引用文を紹介したいと思う。安吾メモ (1) として冒頭から志賀直哉をコテンパンにやっつけるところまで。*ボールド体、語句の強調は私。

 

藤田嗣治はオカッパ頭で先ず人目を惹くことによつてパリ人士の注目をあつめる方策を用いたというが、その魂胆によって芸術が毒されるものでない限りは、かかる魂胆は軽蔑さるべき理由はない。人間の現身などはタカの知れたものだ。深刻ぶろうと、茶化そうと、芸術家は芸術自体だけが問題ではないか。

現世的に俗悪であっても、仕事が不純でなく、傑れたものであれば、それでよろしいので、日本の従来の考え方の如く、シカメッ面をして、苦吟して、そうしなければ傑作が生れないような考え方の方がバカげているのだ。清貧に甘んじるとか、困苦欠乏にたえ、オカユをすすって精進するとか、それが傑作を生む条件だったり、作家と作品を神聖にするものだという、浅はかな迷信であり、通俗的な信仰でありすぎる。

京都で火の会の講演があったとき、織田は客席の灯を消させ、壇上の自分にだけスポットライトを当てさせ、蒼白な顔に長髪を額にたらして光の中を歩き廻りながら、二流文学論を一席やったという。

 

こういう織田の衒気を笑う人は、芸術に就て本当の心構えのない人だろう。笑われる織田は一向に軽薄ではなく、笑う人の方が軽薄なので、深刻ヅラをしなければ、自分を支える自信のもてない贋芸術の重みによたよたしているだけだ。

織田の狙いは、純一に、読者を面白がらせるというところにあるのである。 .  .  .  ただ世俗的な面白さ、興味、読者が笑うようなことばかり、そういう効果を考えているのである。

織田のこの徹底した戯作者根性は見上げたものだ。永井荷風先生など、自ら戯作者を号しているが、凡そかかる戯作者の真骨頂たる根性はその魂に具ってはおらぬ。濹東綺譚に於ける、他の低さ、俗を笑い、自らを高しとする、それが荷風の精神であり、彼は戯作者を衒い、戯作者を冒涜する俗人であり、即ち自ら高しとするところに文学の境地はあり得ない。なぜなら文学は、自分を通して、全人間のものであり、全人間の苦悩なのだから。

.  .  .  俗を笑い、古きを尊び懐しんで新しきものを軽薄とし、自分のみを高しとする、新しきものを憎むのはただその古きに似ざるが為であって、物の実質的な内容に就て理解すべく努力し、より高き真実をもとめる根柢の生き方、あこがれが欠けている。れの卑小を省る根柢的な謙虚さが欠けているのだ。わが環境を盲信的に正義と断ずる偏執的な片意地を、その狂信的な頑迷固陋さの故に純粋と見、高貴、非俗なるものと自ら潜思しているだけのことわが身の程に思い至らず、自ら高しとするだけ悪臭芬々たる俗物と申さねばならぬ。

織田が革のジャンパーを着て、額に毛をたらして、人前で腕をまくりあげてヒロポンの注射をする客席の灯を消して一人スポットライトの中で二流文学を論ずる、これを称して人々はハッタリと称するけれども、ういうことをハッタリの一語で片づけて小さなカラの中に自ら正義深刻めかそうとする日本的生活の在り方、その卑小さが私はむしろ侘びしく哀れ、悲しむべき俗物的潔癖性であると思うが如何。

 

むしろかかる生活上の精力的な、発散的な型によって、芸術自体に於ては逆に沈潜的な結晶を深めうる可能性すらあるではないか。生活力の幅の広さ、発散の大きさ、それは又文学自体のスケールをひろげる基本的なものではないか。

 

文学は、より良く生きるためのものであるという。如何に生くべきであるという。然し、それは文学に限ったことではなく、哲学も宗教もそうであり、否、すべて人間誰しもが、各々如何に生くべきか、より良き生き方をもとめてやまぬものである故、その人間のものである文学も亦、そうであるにすぎないだけの話である。然し文学は、ただ単純に思想ではなく、読み物、物語であり、同時に娯楽の性質を帯び、そこに哲学や宗教との根柢的な差異がある。

 

思うに文学の魅力は、思想家がその思想を伝えるために物語の形式をかりてくるのでなしに、物語の形式でしかその思想を述べ得ない資質的な芸人の特技属するものであろう。

 

小説に面白さは不可欠の要件だ。それが小説の狙いでなく目的ではないけれども、それなくして小説は又在り得ぬもので、文学には、本質的な戯作性が必要不可欠なものであると私は信じている。

 

我々文士は .  .  .  ただ人間の苦悩を語っているだけだ。思想としてでなしに、物語として、節面白く、読者の理知のみではなく、情意も感傷も、読者の人間たる容積の機能に訴える形式と技術とによって。文士は常に、人間探求の思想家たる面と、物語の技術によって訴える戯作者の面と、二つのものが並立して存するもの、二つの調和がおのずから行われ、常に二つの不可分の活動により想を戯作の形に於て正しく表現しうることしか知らないところの、つまりは根柢的な戯作者たることを必要とする。なぜなら、如何に生くべきかということは、万人の当然なる態度であるにすぎないから。

 

然し単なる読み物の面白さのみでは文学で有り得ないのも当然だ。人性に対する省察の深さ、思想の深さ、それは文学の決定的な本質であるが、それと戯作者たることと、牴触すべき性質のものではないという文学の真実の相を直視しなければならぬ。我々の周囲には思想のない読物が多すぎる。読物は文学ではない。(中略)

 

文学者が戯作者でなければならぬという、その戯作者に特別な意味があるのは、小説家の内部に思想家と戯作者と同時に存して表裏一体をなしているからで、日本文学が下らないのは、この戯作者の自覚が欠けているからだ。戯作者であることが、文学の尊厳を冒涜するものであるが如くに考える。実は、あべこべだ。彼等の思想性が稀薄であり、真実血肉の思想を自覚していないから、戯作者の自覚も有り得ない。戯作者という低さの自覚によって、思想性まで低められ卑しめられ羞められるが如くに考えるのであろう。

坂口安吾(2019)「大阪の反逆—織田作之助の死—」『不良少年とキリスト』新潮文庫 pp.196-204

安吾メモ(2)

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