Sakaguchi Ango, Maplopo

1947年『文芸』に発表された彼の自伝的小説「風と光と二十の私と」を英訳したのを契機に、坂口安吾についての考察をここに記す。

更新日:2022年2月8日

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私が坂口安吾に惹かれたのは齋藤孝の『理想の国語教科書』に書かれていた安吾の説明と掲載作品が気に入ってのことで、かれこれだいぶ昔のことになる。その時も、この人はなんてパワフルな人なんだろうというのが一番の感想であったけれど、「風と光と二十の私と」を翻訳し彼の思想をできるだけよく理解しようと毎日毎日寄り添ってきた後も、この人のパワフルさ、何事にも全力投球なところというのはやはり際立って心に残る。

有名な「堕落論」や「日本文化私観」のほか「恋愛論」「ヤミ論語」「敬語論」などでは独自の理論を、説得力のある魅力的な文章で展開している。無茶苦茶なだけでない、哲学的な色を垣間見させるのも彼の魅力の一つなのだ。

とりあえず、このページの出だしはこんな感じにしておいて、今後時間を見つけては安吾についてちょこちょこ、ここに書き加えていきたい思う。

坂口安吾についてもっと詳しく知りたいというのであれば、やはり七北数人氏の著書をお薦めする。下に続く年譜も氏の年譜を基にしており、坂口安吾に関する知識において右に出るものはいないと思われる。また主要な貢献者として制作に関与しておられる坂口安吾デジタルミュージアムの年譜もぜひ見てほしい。それぞれの時代に分かれ、かなり詳密に書かれている。そしてその時の時代背景などもあわせて載っているので包括的に勉強するにはもってこいの、見事な年譜である。

♦♦選りすぐり坂口安吾関連お薦め文書♦♦

荻野アンナ『アイ・ラブ安吾』朝日新聞社(1995)

坂口三千代『クラクラ日記』筑摩書房(1989)

七北数人『評伝坂口安吾 魂の事件簿』集英社(2002)

 

 

 

 

坂口安吾年譜

参考文献:坂口安吾著『風と光と二十の私と・いずこへ』岩波文庫, 2015, 年譜(七北数人 編)

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1906

明治39年10月20日、新潟市西大畑町に父・仁一郎と母・アサの五男として生まれる。13人兄弟の12番目。本名は炳五。父親は衆議院議員かつ新潟新聞社社長、新潟米穀株式取引会社理事長で、森春濤社中の漢詩人としても知られた。母親の実家・吉田家は大地主であった。

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1913

大正2年、新潟尋常高等小学校に入学する。正義感の強いガキ大将で、学校の成績は優秀(学年で2番か3番)、小学校6年間毎年学術優等の賞を受ける。スポーツにも長け相撲大会や運動会で大いに活躍する。

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1919

大正8年、新潟県立新潟中学校に入学する。芥川や谷崎の小説などを読む。スポーツ雑誌なども好んで読む。

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1920

昭和9年、近視が悪化したこと、また横暴な教師や上級生たちへの反抗心がふくらんだことで、学校をサボりだすようになる。同じサボり仲間の同級生と百人一首をしたり教師を風刺する漫画を描いたりして遊ぶ。授業時間が終わった頃に登校し柔道や陸上競技に精を出す。中学2年次は留年。この頃から小説家を志す。

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1922

大正11年、中学3年次の夏、教師を殴ったかどで新潟中学を退学。9月に東京護国寺境内の豊山中学へ編入する。山口修三、沢部辰雄と親しくなる。哲学好きの沢部とはともに禅寺で座禅を組んだりする。

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1923

大正12年、読書量が増え創作への意欲も深まる。チェーホフや正宗白鳥、佐藤春夫らの作品をよく読む。ポーやボードレール、石川啄木を好む。また宗教や自然哲学関係の本にも興味を持つ。11月2日父・仁一郎が後腹膜腫瘍により死去。

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1924

大正13年、全国中等学校競技会の走り高跳びで優勝する。その他、学内の運動会、相撲大会、柔道大会でも活躍する。

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1925

大正14年、19歳、豊山中学を卒業後、荏原尋常高等小学校下北沢分教場の代用教員となる。

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1926

大正15年・昭和元年、代用教員を依頼退職し、東洋大学印度哲学倫理学科へ入学。兄・上枝と婆やの3人で池袋近辺を転々と移り住む。悟りの境地を得ようと仏教書や哲学書などを読みふけり、毎朝午前2時に起きる修行生活をおくる。

僕は坊主になるつもりで、睡眠は一日に四時間ときめ、十時にねて、午前二時には必ず起きて、ねむたい時は井戸端で水をかぶった。. . . パーリー語の三帰文というものを覚え、読書に先立ってまず精神統一をはかるという次第である。. . . 一緒に住んでいた兄貴はボートとラグビーとバスケットボールの選手で鱶のごとくに眠る健康児童であったが、之には流石に目を覚まして、とうとう祈禱文を半分くらい否応なく覚えこむ始末であったが、僕はそういうことを気にかけなかった。

坂口安吾

「二十一」

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1927

昭和2年、21歳、自動車にはねられ頭蓋骨にひびが入る。この頃からうつ病の症状があらわれだす。幻聴や耳鳴り、歩行困難などをともないつらい時期を過ごす。秋ごろから冬にかけ精神病を患った沢部辰雄を毎日のように巣鴨保養院まで訪問する。

. . . 昼は昼で精神病院へ辰夫という友達を毎日訪ねていた。辰夫は周期的に発狂するたちで、. . . 発狂したときに霊感があって株をやり、家の金を持ちだして大失敗したり、母親へ馬乗りになって打擲したりしたから、家族は辰夫の一生を病院の中へ封じるつもりで、見舞いにも来ないのである。僕が毎日訪ねて行くから辰夫の感動すること容易ならぬものがあるが、こっちの方はそれどころではないので、気違いでも何でも構わぬ、誰かと喋っていなければ頭が分裂破滅してしまうという瀬戸際で. . .

坂口安吾

「二十一」

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1928

昭和3年、語学に目覚める。梵語、パーリー語、チベット語を習う。4月にはアテネ・フランセへ入学。フランス語、ラテン語を学ぶ。愛読書はポー、ヴォルテール、ボーマルシェなどの小説で、フランス文学を中心に読む。日本の作家では、葛西善蔵、宇野浩二、有島武郎など。またチェーホフの「退屈な話」に触発され、22歳で初めて小説を書く。第二回『改造』懸賞創作に応募するが落選。

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1930

昭和5年、東洋大学卒業。夏頃から、アテネ・フランセの学友・葛巻義敏、江口清、長島萃、若園清太郎らと同人誌発行を計画する。葛巻の家で毎晩徹夜で翻訳を行う。11月、同人誌『言葉』を創刊。葛巻と交代で編集兼発行人を務める。

僕らが「言葉」という翻訳雑誌、それから「青い馬」という同人雑誌をだすことになって、その編集に用いた部屋は芥川龍之介の書斎であった。というのは、同人の葛巻義敏が芥川の甥で、彼はそのころ二十一、二の若年だったが、芥川死後の整理、全集出版など責任を負うて良くやっており、同人雑誌の出版に就ても僕らの知らないことに通じていて、彼が主としてやっていてくれたからである。当時は芥川の死後三年目であった。

坂口安吾

「青い絨毯」

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1931

昭和6年、『言葉』第2号に処女作「木枯の酒倉から」を発表。5月に誌名を『青い馬』に変更し、岩波書店より創刊する。菱山修三らが新規加入。創刊号に「ふるさとに寄する讃歌」「ピエロ伝道者」などを発表する。6~7月に「風博士」「黒谷村」を発表したところ牧野信一から絶賛を受け、これにより一躍文壇に名が広まる。10月、牧野が編集を務める『文科』に中編小説「竹薮の家」の連載を始める。以降『文科』関係者の河上徹太郎、中島健蔵、小林秀雄、三好達治と親しくなる。

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1932

昭和7年3月、河上徹太郎の紹介で京都の大岡昇平を訪ね、大岡の友人・加藤英倫のアパート部屋を借り1ヶ月ほど住む。秋頃、東京・京橋駅近辺のバー「ウヰンザア」で中原中也と知り合いになり、女給・坂本睦子と親しくなる。

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1933

昭和8年、27歳、新進作家の矢田津世子と恋に落ち交際を始める。3月矢田に誘われ同人誌『桜』の創刊に加わる。メンバーは田村泰次郎、井上友一郎、真杉静枝、河田誠一など。同時期、隠岐和一や若園清太郎らの同人誌『紀元』の企画準備にも協力し、中原中也などを加入させる。4月頃、矢田津世子が時事新報社の幹部・和田日出吉と愛人関係であることを知りショックを受ける。7月、矢田が特別高等警察に連行され約10日間の留置される。9月、矢田や若園清太郎、菱山修三などを集め神楽坂で第1回ドストエフスキー研究会を主催。11月、「ドストエフスキーとバルザック」を『行動』に発表する。

矢田津世子は加藤英倫の友達であった。. . . 私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウヰンザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二、三日後、英倫と矢田世津子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。

坂口安吾

「二十七歳」

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1934

昭和9年、親友の長島萃が脳炎で他界し、大切な仲間であった河田誠一が22歳の若さで病死する。春頃からバー「ボヘミアン」のマダム・お安のアパートに住み始める。

私は工場街のアパートに一人で住んでおり、そして、常に一人であったが、女が毎日通ってきた。

坂口安吾

「いずこへ」

私の所有した女は私のために良人と別れた女であった。否むしろ、良人と別れるために私と恋をしたのかも知れない。それが多分正しいのだろう。

坂口安吾

「いずこへ」

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1935

昭和10年、「天才になりそこなった男の話」を『東洋大学新聞』に発表。5月に尾崎士郎と出会い、以後終生の友となる。7月から若園清太郎と群馬県の新鹿沢温泉や長野県の奈良原鉱泉に滞在する。12月、「おみな」を『作品』に発表。

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1936

昭和11年、30歳、3月に矢田津世子から絶縁の手紙が来る。同月、牧野信一が自殺し、通夜と葬儀に参列する。6月、矢田へ実質的に最後の手紙を書き送る。

… 私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会いたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなったから、そして、私自身の肉体が厭になったから、と。

坂口安吾

「二十七歳」

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1937

昭和12年、1月末から翌年の6月まで京都に住み始め、江戸時代の随筆など古典文学作品を多く読む。

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1938

昭和13年、長編小説『吹雪物語』を竹村書房より刊行。

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1940

昭和15年、三好達治の世話で神奈川県の亀山別荘に転居する。大晦日に大井廣介を知り、大井中心の同人誌『現代文学』のメンバーに加わる。

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1941

昭和16年、大井の家で『現代文学』の同人・平野謙、佐々木基一、荒正人、南川潤、井上友一郎らと探偵小説の犯人当てゲームに興じる日々が続く。

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1942

昭和17年2月、母アサが他界する。3月「日本文化私観」を『現代文学』に発表。6月、「真珠」を『文芸』に発表。

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1943

昭和18年9月「二十一」を『現代文学』に発表。

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1944

昭和19年、38歳、徴用を逃れるため日本映画社の嘱託になる。3月、矢田津世子が病死。

この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二、三分間、一筋か二筋の涙というものを、ながした。

坂口安吾

「二十七歳」

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1945

昭和20年、8月15日終戦を迎える。蒲田の自宅は戦火を逃れて焼け残る。11月、尾崎士郎と同人誌『風報』の創刊を計画。「咢堂小論」を執筆。

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1946

昭和21年、40歳、4月に「堕落論」、6月に「白痴」を『新潮』に発表。これら二作は大きな注目を集め一躍流行作家となる。殺到する注文をこなすためヒロポンを常用し、酒も多量に摂取する。「いずこへ」を『新小説』に、「石の思い」を『光』に発表。11月22日に太宰治、織田作之助、平野謙を集めて開催された座談会「現代小説を語る」に出席、25日には同じく太宰と織田とで鼎談会「歓楽極まりて哀情多し」を行う。12月、江戸川乱歩主催の土曜会に出席する。

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1947

昭和22年、「風と光と二十の私と」を『文芸』に、「私は海をだきしめていたい」を『婦人画報』に発表。1月10日、織田作之助が結核で他界する。3月、「二十七歳」を『新潮』に発表。同月、後に妻となる三千代に出逢う。4月「恋愛論」を『婦人公論』に発表。この頃、腹膜炎で緊急手術をした三千代のため約1ヶ月間、病院で付きっきりの看病をする。三千代は退院後、坂口家で養生を続け事実上の結婚生活に入る。「桜の森の満開の下」を『肉体』に、「オモチャ箱」を『光』に発表。8月、「不連続殺人事件」の連載が『日本小説』でスタートする。10月、「青鬼の褌を洗う女」を週刊朝日別冊『愛と美』に発表。覚せい剤の服用は続き、ヒロポンに加えゼドリンも打ちだす。

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1948

昭和23年、「わが思想の息吹」を『文芸時代』に、「三十歳」を『文学界』に発表。6月13日太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水。15日、太宰情死の知らせを受ける。7月、独自の太宰論と文明論を披露する「不良少年とキリスト」を『新潮』に発表。不眠に悩まされる日が続き、ゼドリンのほか、睡眠薬アドルムも多量摂取し、幻視幻聴があらわれだす。

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1949

昭和24年、43歳、アドルム多量摂取で何度も狂気の発作を起こし、二階の窓から飛び降りたり同居人に乱暴したりの騒動を起こす。2月に東大病院神経科へ入院する。4月、税金滞納のため税務署からの不動産差押さえの通告に対し、異議申立書を提出する。8月、アドルム中毒の発作が再発し警察署に留置される。しかし冬頃から犬を飼い始め、散歩の習慣とともに健康を取り戻す。

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1950

昭和25年、「安吾巷談」の連載が『文藝春秋』で始まる。「百万人の文学」を『毎日新聞』に発表する。

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1951

昭和26年5月、チャタレー裁判第1回公判(※イギリス人作家D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』の翻訳書に関し、訳者の伊藤整と出版者の小山久二郎がわいせつ文書販売罪で起訴された事件)を傍聴する。11月、多量のアドルムを服用して半狂乱に陥り、滞在先の檀一雄宅にカレーライス100人前を注文させる。

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1952

昭和27年、「夜長姫と耳男」を『新潮』に発表。

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1953

昭和28年7月、47歳、『別冊文藝春秋』の企画で檀一雄と新潟から松本へ取材旅行をする。旅行中に暴れ、留置所に入れられる。留置所を出てすぐ、長男綱男誕生の知らせを聞く。旅行から帰宅後、また暴れて再び留置所へ。その後、市長宛への詫び状、三千代との婚姻届、長男の出生届を提出する。

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1954

昭和29年8月、通算5年半務めていた芥川賞の選考委員を、選考方法に疑問を呈し辞任する。10月、両親の法要のため妻と長男を連れ新潟に帰省。

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1955

昭和30年2月、「安吾新日本風土記」の連載が『中央公論』で始まる。2月17日、脳出血により自宅で急逝。享年48歳。没後、「青い絨毯」が『中央公論』に発表される。

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