文筆活動を始めてから他界するまでの僅か十数年間で多くの名作を生み出した天才・中島敦。彼の描いた思想に魅了される読者は、世代と国境に関係なく増え続けている。そんな偉才の文学者がこれほどまで愛される理由を書いていきたい。
更新日:2022年4月8日
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中島敦の秀作「名人伝」を英訳したのは2年前のことになるが、私はこの作品がどうしても好きで、この作品の良さを当時まだ友人であり、今は夫となったDocに伝えたい一心で始めたことだった。それは無邪気な新米が、大それたことに怖いもの知らずで挑戦するのと同じだった。
私が「名人伝」に魅かれる理由はたくさんある。でも最大の理由は、「不射之射」という言葉——紀昌が甘蠅老師に教えられる言葉——に、凝縮されていると思う。道家的、仏教的な考え方で、何事にも囚われないことを善とし、無の境地に立つことで人は初めて解き放たれるという思想に則っている。一見逆説的な論理であるが、そういう考え方に触れたことの無い人がこの考えを一体どう感じるのか、また理解してもらうのは可能なのか?というのに興味があった。
「名人伝」の魅力はありすぎて語り切れないほどで、これはとにかく知性をひっきりなしに刺激してくれる名作中の名作と言えよう。まさに知の結晶である!
中島作品は他にも「山月記」や「李陵」「弟子」など、教科書でもおなじみの有名な作品があるが、それら物語中に使用されている難しい漢字群にひるんでしまっていてはいけない。その根底にある作者から読者へのメッセージや、それを伝えようとする態度からはいかめしさの欠片も感じられず、文章間に漂うのは作者の温かさと優しさだ。どんな文章でも、読んでいると著者の人柄や人となりなんかが自然と分かるものだが、中島敦は間違いなく心の美しい人だ。そして自分の知性に合った格調ある文体でただ書いているのであって、何も不自然でなく、自分を尊大に見せようとしているのでもなく、それが彼なのだと思う。非常に品のある人なのだ。
中島敦は漢学者の家系に生まれ、もちろんのことながら漢詩や中国史に造詣が深かった。しかし漢文だけを得意とする一面的な人だと決めつけるのは間違いで、西洋文学・哲学にも慣れ親しんでいた。20代前半から、フランツ・カフカやデイヴィッド・ガーネット、アナトール・フランス、ロバート・スティーヴンソンなどを、英語で読んでいたと言われている。「光と風と夢」(小説家・日野啓三が「ほとんど至福に近い文学的感動を覚えた」という作品)ではスティーヴンソンを主人公にしている。さらには古代エジプト、ギリシャ、アッシリア関係にも興味をもち、それを題材にした作品が「狐憑」「木乃伊」「文字禍」である。
パラオ南洋庁勤務時代には島の民族史に詳しい彫刻家・土方久功と親しくなり、島の民話にも興味を持った。それが基になったのが「南島譚」3篇と「環礁」6篇である。とりあえず色々なことに公平に興味を抱く、純真で好奇心旺盛な人だったんだと思う。それに明晰な頭脳がついているんだからもう敵なしというところだろう。
そんな中島敦が33歳という若さで夭逝したのは、その後年齢や経験とともに大いに開花したであろう非凡な才能を呈示する機会を失ったということで、この世の運命ということを今一度考えさせられる。
文筆活動を始めてから他界するまで僅か十数年間で書かれた作品が、これほど世代を超えて愛され続けているという事実からも言えるように、中島敦はまさに本物中の本物の小説家、文学者であった。
中島敦年譜
参考文献:
中島敦著『中島敦全集3』ちくま文庫, 2021, 年譜(勝又浩 編)
中島敦著『李陵・山月記 弟子・名人伝』角川文庫, 1996, 年譜(郡司勝義 編)
山下真史著「中島敦——人と文学」https://chuo-u.repo.nii.ac.jp
1909
明治42年5月5日、東京四谷区(現・新宿区)父・田人と母・チヨの間に生まれる。田人は文部省教員検定試験(漢文科)を合格し各地の中学校に勤務する教員で、チヨも東京の小学校の教員をしていたというが詳細は不明。知る人によるとかなりの才女であったらしい。中島敦の祖父・慶太郎は撫山と号した亀田鵬斎門の漢学者であった。敦の叔父の一人・端は斗南と号した漢学者で、叔父のもう一人・竦は中国古代文字の民間の研究者。
1910
明治43年、両親が離婚する。父の郷里の埼玉県久喜町の祖父母のもとに引き取られる。
1914
大正3年、5歳。父・田人が再婚する。
1915
大正4年3月、小学校入学のために父の任地先の奈良県郡山町に引っ越す。翌年4月、奈良県郡山町男子尋常小学校に入学する。
1918
大正7年、9歳。父親の転勤にともない、静岡県浜松尋常小学校に転入する。
1920
大正9年、11歳。父親の海外転勤にともない、朝鮮京城龍山小学校に転入する。
1922
大正11年3月、龍山小学校を卒業。4月、朝鮮京城府公立京城中学校に入学する。
1923
大正12年、14歳。継母が妹・澄子を出産するが、その5日後、産褥熱により死去。
1924
大正13年、父の再婚で第2の継母を迎える。
1926
大正15年・昭和元年1月、三つ子の弟妹出生。3月、京城中学校4年終了時に第一高等学校の入試を受ける。通常5年の修業過程であるが4年で見事突破。東京の第一高等学校(現・東京大学教養学部)文科甲類に入学し、寮生活を始める。8月、産まれたばかりの弟・敬が亡くなり、2ヵ月後にもう一人の弟・敏が亡くなる。
1927
昭和2年4月、肋膜炎を患い1年間休学する。療養に努める。『校友会雑誌』第313号に「下田の女」を発表。同作は活字になった初めての作品。
1928
昭和3年、19歳。肋膜炎から回復後、喘息の発作に見舞われるようになる。4月、寮を退去し、叔父の縁で渋谷の弁護士・岡本邸に寄寓するようになる。同じく叔父の娘で岡本邸から日本女子大学英文科に通う2歳年下の従姉妹・褧子と親しくなり、卒業論文の作成を手伝う。
1929
昭和4年、20歳。2月、第一高等学校の文芸部員となり『校友会雑誌』の編集に携わる。部長・立沢剛、その他部員は中島敦に加え、高橋三義、木村左京、氷上英広。6月、「蕨・竹・老人」と「巡査の居る風景」を「短篇二つ」として発表する。
1930
昭和5年3月、三つ子の妹・睦子が病死する。第一高等学校を卒業し、4月、東京帝国大学文学部国文科に入学。6月、叔父の斗南が死去。夏期休暇を利用して永井荷風や谷崎潤一郎の作品を一通り読む。10月頃から友人の釘本久春の紹介で英国大使館駐在武官A・R・サッチャー海軍主計少佐の日本語教師を1年間務める。
1931
昭和6年、22歳。3月、後の妻となる橋本タカに出会い、一目惚れをする。熱心に求婚するが、タカに許婚がいることや敦がまだ学生であること、また学歴の違いなどが理由で話がうまく進まず、双方の家の了解を得るのに苦労をする。あらゆる困難を乗り越え、敦の大学卒業を条件に結婚が許される。夏の休暇中に上田敏や正岡子規、森鴎外らの全集を読み、卒業論文の材料集めをする。また江戸時代の将棋の天才・天野宗歩の全棋譜(『将棋精選』3巻3冊)を読破する。
1932
昭和7年8月、南満州と中国北部を旅行する。秋に朝日新聞社の入社試験を受けるが、第2次の身体検査で不合格となる。持病の喘息や不健康的印象を与えてしまう敦の痩躯が不合格の原因であったらしい。(32歳時の記録は身長159㌢体重45㌔で現代成年男性の適正体重と比較すると約10.6kg低い。)伯父を題材にした短篇「斗南先生」をまとめる。
1933
昭和8年、祖父・撫山の著『演孔堂詩文』と伯父・斗南『斗南存稾』を東京帝国大学図書館に寄贈する。3月、東京帝国大学国文科を卒業。卒業論文は「耽美派の研究」という題で森鴎外や上田敏などの『スバル』一派の耽美的傾向を論じている。4月、大学院に入学する。研究題目を「森鴎外の研究」とする。4月、父・田人の紹介で横浜市の横浜高等女学校の教師となる。妻・タカは愛知県に里帰りし長男・桓を出産。8月、D. H. ロレンスの『息子と恋人』を助教授の下訳用に同窓の木村行雄と翻訳する。フランツ・カフカの英訳を読み、一部翻訳する。
耽美派
明治時代末期、文壇の主流となっていた自然主義の行き過ぎた文学精神——個人の赤裸々な告白・暴露体——に対立する形で生まれる。避けることのできない現実の醜悪に影響を受けながらも、文学の可能性を模索し、1910~30年代に勢いづく。ヨーロッパでの退廃的・厭世的な傾向に刺激を受け、官能享楽主義・耽美主義を唱える。『スバル』『三田文学』『新思潮』これら3つの雑誌が母体。森鴎外、上田敏、永井荷風、泉鏡花、佐藤春夫、谷崎潤一郎などの作風に代表される。
1934
昭和9年2月、「虎狩」を『中央公論』の懸賞に応募、夏の結果発表で選外佳作と分かる。3月、大学院を中退。秋頃、喘息発作のため生命を危ぶまれる。
1935
昭和10年4月、釘本久春の紹介で釘本と同じ勤め先(横浜市浅野学園中学校)の教員・三好四郎を知る。三好は中島敦と同じ中学に通い、2年後輩であった。ラテン語、ギリシア語に興味をよせる。デイヴィッド・ガーネットの作品を好む。愛読書は「列子」(作者は列禦寇というのが有力。老子の思想を受け継いだ魏晋時代の道家の作品ともいわれる)や「荘子」(荘子を中心に道家の論を集めた33篇)を含む。同僚とブレーズ・パスカル「パンセ」の講読会を行う。
1936
昭和11年、27歳。2月、日比谷公会堂で催されたフェオドル・シャリアピン独唱会に行く。4月25日、第2の継母が他界する。6月頃から三好四郎の紹介で深田久弥を訪れるようになる。8月、中国旅行に出る。上海埠頭にて三好四郎と落ち合い、杭州や蘇州を周る。11~12月の間、「狼疾記」と「かめれおん日記」を脱稿。韓非子、王維、高青邱などの作品を愛読する。アナトール・フランス全集を英訳で読む。
1937
昭和12年1月、長女・正子が生まれて3日目に亡くなる。秋頃より喘息が悪化し始める。11月~12月、「和歌五百首」を作る。
1938
昭和13年、29歳。草花作りや音楽鑑賞を楽しむ。8月、オルダス・ハクスリー「パスカル」を訳了する。
1939
昭和14年1月、「悟浄歎異」脱稿。喘息の発作が激しくなる。相撲、音楽、天文学に関心をもつようになり、相撲に関しては星取表を教務手帳の代わりに持つまでになる。釘本久春が文部省の教科書図書監修官となり「支那で出す日本語の教科書」の編修に携わる。後に中島敦が「南方植民地で出す日本語の教科書」の編修書記となったのは釘本の斡旋によるものといわれる。
1940
昭和15年2月、次男・格出生。夏頃からロバート・スティーヴンソンを読み始める。プラトンの作品や古代エジプト、アッシリアに関する文献などを耽読する。頻繁におこる喘息の発作に苦しみ、暮頃には勤務を週1~2日程度に減らす。
1941
昭和16年、32歳。2月、喘息の療養のため南洋への転地を考え始める。3月末、横浜高等女学校に休職願を届け出る。パラオ南洋庁に赴任する話が本決まりとなり、6月初め頃に出立ち前の挨拶として深田久弥を訪ねるが、深田が不在で置手紙と原稿数編を預ける。6月16日、横浜高等女学校へ退職届を提出。同月28日、パラオ島コロール町のパラオ南洋庁に赴任するため横浜から出航する船に乗り、翌月6日、任地に到着する。南洋庁内務部地方課の国語編修書記となる。(当時のパラオ島人口合計は141,259人で、うち日本人90,072人。全群島に34の国民学校が存在した。)着任早々アミーバ赤痢に感染し高熱と激しい下痢を繰り返す。回復後、デング熱を患い、体調不良が8月末まで続く。
パラオ在住の彫刻家・土方久功を知り、パラオ民族史に造詣の深い土方からパラオ民話を学ぶ。晩秋の頃、深田久弥に預けていた原稿のうち「山月記」と「文字禍」が翌年2月号の『文学界』に採用と決まる。11月19日、文部省発行「(旧制)高等学校教員無試験検定合格」の国語教員免許状を得る。12月31日「心臓性喘息ノタメ劇務ニ適セズ」という理由で内地勤務を希望。
1942
昭和17年1月、土方久功と約2週間かけパラオ本島1周巡りをする。2月「山月記」と「文字禍」の2篇を「古譚」として『文学界』に発表する。3月17日、出張としてパラオから帰京する。気候の変化が原因で肺炎をおこす。5月、「光と風と夢」を『文学界』に発表する。7月15日、単行本『光と風と夢』が筑摩書房より刊行される。収録作品は「古譚」4篇(狐憑・木乃伊・山月記・文字禍)、「斗南先生」、「虎狩」、「光と風と夢」。同月末、南洋庁へ辞表を提出し、9月7日付けで退職する。10月末頃、後の「李陵」となる一篇を書き上げる。11月15日、単行本『南島譚』が今日の問題社より刊行される。収録作品は「南島譚」3篇(幸福・夫婦・雞)、「環礁」6篇(寂しい島・夾竹桃の家の女・ナポレオン・真昼・マリヤン・風物抄)、「悟浄出世」、「悟浄歎異」、「古俗」2篇(盈虚・牛人)、「過去帳」2篇(かめれおん日記・狼疾記))。同時期、続く喘息の発作のためり心臓が衰弱し、世田谷区の岡田医院に入院する。12月1日、「名人伝」を『文庫』に発表する。同月4日午前6時、同医院にて逝去。享年33歳。
1943
昭和18年1月、遺稿「章魚木の下で」が船山馨らの同人誌『新創作』に掲載される。2月、「弟子」が『中央公論』に掲載される。7月、「李陵」が『文学界』に掲載される。
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