「富嶽百景」は一番好きな太宰作品である。文芸評論家の奥野健男が「芸術的に寸分のすきもない整った見事な短編」と評するように、何もかもが完璧で非の打ちようがない。こういうのを読むと、天才、非凡さをまざまざと見せつけられる。それは一人間として祝福すべき類のもので、これを書き上げた太宰がもし隣にいたら、肩をがっしりつかんで、ほんますごいわあんたさん!って彼の肩をぐらぐら揺すぶりながら力を込めて伝えたい作品である。
さて、富嶽百景。これは所謂、太宰が再生をはかって書いた、精神的に健全な物語として知られている。要は、今から立て直すでー自分!富士さん、頑張りますンで見守っててください。という感じのもの。何がいいか、何がここまで私を惹きつけるかというと、やはり主題となっている富士山で、富士の存在感がいい。作品中太宰は常に富士、偉大なる富士山を意識し続ける。東京のアパートの暗い便所で金網越しから見えた「小さく、真白で、左のほうにちょっと傾いて」いる富士山。そんな富士を立ち尽くしたまま、じめじめ泣きながら見た太宰は「あんな思いは、二度と繰り返したくない」と述懐する。そして心機一転、山梨県の御坂峠へ井伏鱒二を頼って山籠りを始める。そこでも太宰は常に富士山を意識し続ける。あんなものは俗だ、なんてったって皆にちやほやされる、高いだけの山だ、みたいな感じで。しかし富士山はそんな太宰の思いは微塵もせず、平気でそこに存在し続ける。ただ、相も変わらずそこにいるだけ。どーん、でーんという堂々たる感じで。物語りを通して変化するのは太宰の見方だけだ。その時その時の太宰の心境で、富士さんは俗にもなったり妖精にもなったり、ドテラ姿の気前のいい親方にもなったりする。
私が個人的に作品を通して感じたのは、やはり自然は絶対的に偉大だということ。人間はその前には完全にちっぽけな存在であり、こっちは色々こせこせとやっているのに、あちらはどーん、でーんと威風堂々構えているだけ。私たちがせせこましくいくら踠き苦しんでいろうと、あちらは、そんなこちゃ気にしない。平然と、来る日も来る日も自然のなりわいを営んでいく。「富嶽百景」ではそのコントラストがとてもうまく書かれていると思う。色々富士に思いをぶつけている太宰と、そんなの全く気にしていない富士。でも徐々に徐々に、少しずつ成長していっている太宰。富士と向き合い富士と対談することで、自分自身を救っているように思える。
こう言うとなんだか冷たい人間に聞こえるかもしれないが、私は何があろうと、結局、最後に頼れるのは自分だと思っている。どんなに虚弱で愚劣で含羞に苦しもうと、どれほど傷つき落胆し破滅しようと、自分の人生なのだから、自分がまずしっかりしなければならない。自分を救ってあげれるのは、親でも子でも恋人でもましてやペットでもなくて、そういう愛する人たちからパワーをもらい能動的に生きていく自分自身である。そして富士から百景を見出せるように、自分次第で物事の見方は変えてゆける。どんなものでも自分の心構えで一定のものを色んな風に見ることができる。太宰も「富嶽百景」の中で最終的に富士山をすごく好意的に見ており、最後に、お世話になりました、と言っている。それだけ余裕ができた、成長できたことの証だ。
自然の悠然さを代表している富士山は、相も変わらずずーっとそこにいて、縄文時代に人々が竪穴住居で生活しているときも、第二次世界大戦中B29が上空から爆弾落としてくるときも、時代がミレニアムを迎えた時も、同じように泰然と、じーっと無言でそこにいる。そしてこの先も、人間がいつか滅びこの地から消え去ってしまうときでも、富士はそこに存在し続けるのだろう。別に何も努力しているわけでなく、存在することが当たり前なので、山だけに限らず、川も海も空もそう。その絶対的さ、無為自然に、私は畏敬し神聖な気持ちになる。
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苦しみについて——多くの芸術、美術は苦しみを経て生み出される。私の敬愛してやまない作家・野上彌生子が言っているように、苦悩を経験していない人は「私なんてまだまだ、自分はホンモンじゃない」と言わざるをえない。本当の苦難を経験している人、傍から見ても「よく耐えてこられましたね」と心から慈しみたくなるような、例えば旧植民地で敗戦を迎え、徒歩で38度線を突破し命がけで日本に引き揚げてきた五木寛之や藤原ていのような、苛烈な現実を経験した人たちの思想は深くて 「真実血肉の思想」の趣がある。私のへんちゃらちっぽけな想像力などとうに及ばない凄まじい現実だ。そういう苦難を乗り越えてきた彼らの言う言葉は薄っぺらでなく、重みがあり人の心に強く訴えてくる。
人の苦悩を100%完全に理解することはできない。「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た」という太宰の苦悩は私には完全には分からない。29歳ですでに自殺を何度も試みている人だ。人の侘しさを主観で想像し共感する感受性の高さも、彼の心をずたずたに蝕んでいったのだろう。純粋すぎるのだ。割り切れないで、ひょうひょうと生きていけない。傷つきやすく、流していけない。しかし、そうやって苦しむ太宰治の苦悶、煩悶から「真実血肉の思想」が生まれるし、こんなにも美しい作品が生まれた。
東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はっきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出ていて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のほうに、肩が傾いて心細く、船尾のほうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似ている。 あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。
ふと、井伏氏が、「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押を見あげた。私も、からだを捻じ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。
私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐が燃えているような感じだつた。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでいる。
娘さんは、興奮して頬をまっかにしていた。だまって空を指さした。見ると、雪。はっと思った。富士に雪が降ったのだ。山頂が、まっしろに、光りかがやいていた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思った。
富士には、月見草がよく似合う。
ねるまえに、部屋のカーテンをそっとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立っている。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。
. . . けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だっていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思いまどうのである。
富士にたのもう。突然それを思いついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持で振り仰げば、寒空のなか、のっそり突っ立っている富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまえている大親分のようにさえ見えたのであるが、私は、そう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなって茶店の六歳の男の子と、ハチというむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出掛けた。
まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟の花ふたつ。ふたり揃いの赤い外套を着ているのである。ふたりは、ひしと抱き合うように寄り添い、屹っとまじめな顔になった。私は、おかしくてならない。カメラ持つ手がふるえて、どうにもならぬ。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙いがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。
. . . 富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿に似ていた。
太宰治(2009)「富嶽百景」『
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